穏やかなはずの春の日差しのなか、額から流れる汗を肩で拭った祐太は鉄パイプを肩に担ぎながら小さく息をつく。
「おい、そこ! そっちの資材、もうちょい右に寄せろ!」
現場監督の怒鳴り声に、祐太は反射的に「はい!」と腹の底から返事をしたあと、腕に力を込めた。
日雇いの工事現場で働き始めてから、もうすぐ半年ほどになる。工事現場の仕事は朝が早く、重労働な上、休憩も短い。しかし、それでも生活をしていくためには働かざるを得ない。祐太は凝り固まって熱をもった筋肉をほぐし、駆け足で次の資材を運びに向かう。
ちょうど1年前の自分は、たぶんもっと心を踊らせていたと思う。
大学を卒業し、憧れだったテレビ番組の制作会社に入社した。下請けの下請けのような小さい会社だったが、手掛ける番組のことを話すと母や父も喜んでくれた。
忙しい業界だということは分かっていたつもりだが、それでも想像を絶していた。終電は当たり前。週に3日は家に帰れない日があり、会社の床に寝袋を敷いて止まり込んだり、徹夜で作業しないといけないことも珍しくはない。
だが、ハードワークなだけであれば、きっと耐えられただろう。1番の問題は直属の上司の罵詈雑言だった。面白い番組を作りたいと思って入ったはずなのに、いつの間にか上司から怒鳴られないためにはどうしたらいいかを考えるだけになっていた。気づいてしまったら、もう働くことはできなかった。祐太はその上司から根性なしだと言われながら、半年経たずに退職した。
祐太の就職を喜んでくれていた手前、親には適当な理由をつけて誤魔化した。次の就職先を見つけなければと思っているうちに、口座の残高が底をつき、結局、すぐに金が手に入る日雇いの仕事に落ち着いたのだ。
「ふぅ……」
昼休みになり、ペットボトルに入れた水道水を口に含むと、祐太はひとり金のことを考えた。
工事現場の仕事はある程度稼げるが、雨が降ったりすれば急に現場がなくなることもあり、収入は安定しない。今月は寝冷えから風邪を引いていたこともあり、特に生活費がギリギリで、家賃を支払えるかどうかも怪しかった。
洗いざらしのタオルで顔を拭きながら、どうしたものかと考えていると、隣に誰かがどっかりと座る気配がした。
先輩に誘われた仕事
「お前、よく働くな」
振り向くと、そこにいたのは山城さんだった。
この現場で何度か顔を合わせているが、名前を知ったのは最近のことだ。年齢はよく知らないが、見た目は70歳くらいに見える。深い皺と日に焼けた肌、それに妙に落ち着いた雰囲気がある人物だ。
「え、そうですか? 別に普通だと思いますけど……」
「金、困ってんだろ?」
不躾だったが図星だった。祐太がなんと答えるべきかと思案していると、山城さんが続けた。
「今度、近くの桜祭りでテキ屋の手伝いやらねぇか? 簡単な仕事だし、現場よりは楽だぞ」
「何売るんですか?」
「食いもんだよ。焼きそばだよ」
山城さんは煙草に火をつけながら答えた。
「どうせ暇だろ? いいバイト代になるし、悪い話じゃねぇと思うがな」
「でも……大丈夫でしょうか? 俺、その、接客ってほとんど経験ないんですけど……」
「あんま難しく考える必要はねえ。とにかくハキハキ声出してやってれば文句は言わねえよ」
「そういうもんですか……」
「まあな、お前は若ぇし、体力もあるから大丈夫だろ。で、どうする? 日給は2万な」
「え、そんなにもらえるんすか」
祐太は思わず声色が変わってしまった自分を恥ずかしく思ったが、背に腹はかえられない。
フリーター生活は楽ではない。収入が安定しない分、働かなければ一瞬で生活が回らなくなる。少しでも金になるならやってみてもいいかもしれないと思った。
「……わかりました。やります」
祐太が答えると、山城さんは満足そうにうなずいた。
「よし、そんじゃ決まりだ。携帯出せ。メールで集合時間と場所送るから」
「あ、はい。お願いします……LINEとかでも大丈夫ですか?」
「は? らいん?」
山城さんは口を開けたまま、ポケットから取り出した二つ折りの携帯電話を突き出した。
今日日ほとんど見ることのないガラケーに手打ちで連絡先を交換すると、山城さんは片手を上げて去っていった。
「じゃあ、あとで場所と時間は連絡するから。頼んだぞ」
こうして祐太は、桜祭りでの仕事を引き受けることになった。
祭りでの仕事は
桜の花びらが風に舞い、春の匂いが祭りの喧騒に混じっていた。
「ほら祐太、手ぇ止めんなよ!」
山城さんの声に、祐太は鉄板の上で出来上がっている焼きそばをパックに詰める手を速めた。
桜祭り当日、祐太は山城さんの屋台で、ひたすら客をさばき続けていた。一応覚悟はしていたつもりだが、思った以上に忙しい。山城さん曰く、いい時は1パック500円の焼きそばを1日売って、売上が25万を超えることもあるらしく、そのときに比べれば大したことはないと山城さんは笑っていたが、野菜を切り、出来上がったものを詰めては売る――その繰り返しで目が回りそうだった。
「はい、お待たせしました! 焼きそば1丁! 熱いのでお気をつけて! お次の方、ご注文どうぞ!」
プラスチックの容器に盛った焼きそばを手渡しながら、息をつく間もなく次の客の注文を確認する。
身を乗り出せば、相変わらずの長蛇の列が見える。祐太は汗をぬぐう暇もなく、次の注文を受けて焼きそばを容器のなかに詰めていく。
あまりの忙しさに最初は戸惑いこそしたが、仕事は意外と楽しかった。
山城さんの言った通り、難しく考える必要はなかった。子ども連れの家族や、浴衣姿のカップル、酔っ払ったおじさんたち。いろんな人がやってきて、焼きそばを受け取るたびに「ありがとう」と言って祭りに戻っていく。
「お兄さん、焼きそば美味しかった!」
小さな男の子が笑顔でそう言ってくれたとき、なんだか少し誇らしい気持ちになった。
「おう、いいねぇ。だんだん板についてきたじゃねぇか」
山城さんが焼き台の奥から笑った。祐太は「まあ、なんとか」と息をついた。
「……おおい! このゴミはどいつのだ!?」
野太い声が右隣の射的の屋台から聞こえてくる。
思わず反応して視線を向けると、厳めしい店主がこちらを見ていた。
金髪のオールバックで、半袖を肩までまくり上げた太い腕にはびっしりと和彫りの入れ墨が入っている。色の薄いサングラス越しの視線は鋭く、口ひげも相まって表情が怖い。祭りが始まる前に挨拶こそしたが、あまり関わりたいと思える風貌ではなかった。
そんな強面の店主の手には祐太が飲み干してクーラーボックスの隣に置いておいたはずの空のペットボトルがあった。いつの間にか風で隣の屋台へ転がってしまったらしい。
「俺のです! すみませんでした!!」
思わず駆け寄って平謝りした。冗談でも何でもなく、殺されるのではないかとすら思った。だが、店主は祐太の背中を思いのほか柔らかいタッチで2度叩いた。
「んだ、坊主のか。気をつけろ。ここの祭りはゴミとかにめちゃくちゃうるせえんだ」
「あ、はい、ありがとう……ございます」
拍子抜けする祐太を置いて、店主はやってきた小学生の集団に射的のやり方を説明し始める。祐太が屋台に戻ると、山城さんがいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
「あの兄ちゃん、見た目はアレだが、いい奴だろ」
「……そう、みたいです」
「まぁ、祭りじゃいろんな奴が働いてんだよ。それも含めて楽しめ」
「はい」とうなずいて、持ち場に戻ろうとした瞬間だった。
「NO! NO! You got the amount wrong!」
今度は左隣の屋台から喧噪のなかでもよく通る大声が聞こえた。
「だから言ってんだろ! これ以上まけらんねぇって!」
左隣の屋台の前で背の高い外国人とねじり鉢巻きの店主が口論になっていた。店主の顔は険しいが、外国人客も負けじと身振り手振りで抗議をしている。すでに周囲の客にもただならぬ空気は伝わり始め、一触即発の緊張感が漂っていた。
●祭りの最中、次々と舞い込むトラブルの対応に追われる祐太だが、懸命に働き続けるなかで、忘れていた働く喜びを思い出すようになる。後編【「お兄ちゃん助かったよ!」外国人の相手に迷子…次々起きる“お祭り騒ぎ”を経て20代フリーターが見つけた「働く意味」】にて詳細をお届けする。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Finasee マネーの人間ドラマ編集班
「一億総資産形成時代、選択肢の多い老後を皆様に」をミッションに掲げるwebメディア。40~50代の資産形成層を主なターゲットとし、多様化し、深化する資産形成・管理ニーズに合わせた記事を制作・編集している。