<前編のあらすじ>
17年前に夫を亡くした早苗は一人で小料理屋を切り盛りし、子供たちを育てあげた。末の娘の凛子もこのほど職を得て郊外で暮らしている。中学高校と荒れた時期を過ごした長男と違い、手のかからない子供だった。
凛子なら一人でも無事に暮らしているはず……。
そう思う早苗だったが、凛子の職場からかかってきた電話で事態は一変する。聞けば凛子は無断欠勤しているというのだ。無事を確かめに、早苗は凛子のもとに向かうのだが。
前編:「娘さんが無断欠勤しています」職場からのまさかの電話が…“手のかからない子”だったはずの娘に起こった緊急事態
アパートのインターホンを押すが……
凛子の住むアパートに着いたのは、昼下がりだった。
住宅街の中にひっそりと建つ、築年数を感じさせる3階建ての建物。白い外壁には薄く埃がかかり、エントランスには小さな植木鉢がいくつか並んでいた。引っ越しの際に、1度だけ入った凛子の部屋は2階の奥だったはず。郵便受けに、ぎゅうぎゅうに詰まったチラシや封書を見ないようにしながら、インターホンを押す。
「……凛子?」
返事はない。もう一度押す。今度は少し長めに待ってみる。ドアの前に立ったまま耳を澄ますと、わずかに中から音がしたような気がした。布団がこすれるような、かすかな気配。
いる、と思った。早苗はすぐに管理会社に連絡を入れた。事情を話し、社員が駆けつけてくれるのを待つ時間が、永遠のように感じられた。鍵が開いた瞬間、彼を押しのけるようにして、ドアノブを回した。
「凛子……! 凛子、大丈夫!?」
靴を脱ぎ捨てながら部屋に上がると、くぐもった声が、暗闇の中から漏れた。
「……え?」
「凛子、大丈夫!? 何があったの、どうして……」
荒れ果てた部屋
状況への理解が追いつかずに呆ける凛子が横になっているベッドに駆け寄ると同時に、早苗は思わず息を呑んだ。ただならぬ部屋の様子に気がついたからだ。
まずワンルームは、真っ暗だった。遮光カーテンがぴったりと閉じられ、昼間だというのに光が一筋も入っていない。足元には、エナジードリンクの空き缶がいくつも転がっている。コンビニのビニール袋に入ったままの食料品、片づけられていない洗濯物。キッチンには、飲みかけのペットボトルやカップ麺の容器が積み重なっている。
もちろん部屋と同じくらい、その主である凛子の様子も荒れ果てている。毛布から顔を出した凛子は、ぼさぼさの髪にスウェット姿。早苗の顔を見て「お母さん」と小さく呟いたあと、すぐに視線を逸らした。目元に溜まった涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちていった。
「……ごめんなさい……」
早苗は何も言わずに、しゃくりあげる娘の背中をさすった。言葉なんて、この場面には何の意味も持たないだろう。ただ、娘が生きていてくれたことがありがたかった。
やがてしばらく経つと、嗚咽がおさまった凛子はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「入社してすぐのころから……ずっと、怒られてばかりだったの。資料の出し方が遅い、言葉遣いがなってない、報連相ができてないって……」
声は小さかったが、言葉のひとつひとつが早苗の胸に突き刺さった。
「私が未熟だからって思ってた。毎日遅くまで残業して、家に帰ってきても仕事して。でも誰にも相談できなくて。眠れない日が続いて、食欲もなくなって……それでも、頑張らなきゃって思ってたの。せっかく就職できたんだし、弱音吐いちゃいけないって……」
凛子は目をぎゅっと閉じた。
「でも……GWが終わった朝、目が覚めたら……体が動かなかった。立ち上がれなくて、スマホも開けなくて……怖くて、誰にも連絡できなかった」
会社辞めたっていいのよ
そのとき早苗は、ふとテレビで観た「五月病」のニュースを思い出した。新しい環境に適応できず、心や体に不調を抱える人が多いと神妙な顔でキャスターが話していた。
もちろん報道を見たときの早苗は、どこか他人事だった。自身がくよくよしない性格のため、「繊細な人は大変ね」くらいの感想しか持たなかった。
だが、今回のことでようやく気づかされた。しっかり者で親の手を煩わせることがほとんどなかった凛子。しかしどんなに強く見えても、たった1人で闘える人間なんていない。
「……ごめんね、凛子。もっと気にかけるべきだった」
早苗は娘の髪をなでながら、静かに語りかけた。
「凛子は、しっかりしてるから大丈夫。お兄ちゃんたちより、優秀なんだから心配いらないって勝手に思い込んでた。だけど、知らない土地で、知らない人たちに囲まれて、慣れない仕事をするんだから、平気なわけないよね。いっぱいいっぱいになって当然だよ」
「でも……たった1か月で限界が来るなんて情けないよ……」
「情けなくなんかない。凛子は十分に頑張ってきたし、むしろ、人一倍気を張って生きてきたんだよ。だからこそ、今こうやって倒れたんだと思う」
凛子はまた、ぽろぽろと涙をこぼした。さっきより少しだけ表情が和らいで見えたが、今にも張り裂けてしまいそうな危うさは変わらなかった。
「これからどうしよう……」
「会社、別に辞めたっていいのよ?」
「え……」
凛子が目を見開いた。
「仕事なんてね、身体と心を壊してまでするもんじゃないでしょう。もちろん踏ん張って頑張れるのだって、かっこいいことかもしれないけどね。むやみに進むんじゃなくて、自分を守るために引き返すのだって勇気がいる、立派なことだと思うのよ」
「そうかな……」
「そうよ。お父さんなんて新卒で入った会社、半月で辞めてるんだから」
「そうなの?」
「だから大丈夫。凛子の人生、まだまだ長いんだから、好きにしたらいいのよ」
しばらくの間、凛子は黙り込んでいたが、やがて緊張の糸が切れたように表情を緩めた。
「……なんか意外だった。お母さん、ガッツあるから、頑張れ負けるなとか言うと思った」
「そんなことないわよ。人生って、頑張り時とそうじゃないときってあるんだから」
早苗は凛子の髪を手櫛で整え立ち上がる。部屋のカーテンと窓を開けると、外は少し傾いた陽に照らされて、オレンジ色に染まっていた。埃っぽい空気に少しだけ新しい風が混じって、早苗たちの間をそっと通り抜けていく。
晴れて自由の身になった娘
凛子が仕事を辞め、実家に戻ってきた。
さすがに1週間も音信不通でいた会社に出向いて退職を伝えるのは難しかったらしく、早苗は最近流行っているらしい退職代行を勧めた。いくつか業者はあったが、どこも費用はだいたい2~3万円程度で、もうトラウマになっている上司と顔を合わせる必要なく辞められるとのことだった。
便利な世の中だ。早苗の世代からすれば想像しがたいビジネスだったが、いざというときに自分を守ることができる手段が増えるのは素直にいいことだと思った。
「お母さん、おはよう」
昼前になって、パジャマ姿の凛子が1階へと下りてくる。退職の手続きが終わり、名実ともに自由の身になった凛子は少しずつだがもとの笑顔を取り戻しつつあった。
「おはよう。今日の小鉢はね、ほうれん草としらすの胡麻和え。凛子、好きだったでしょ」
「うん……懐かしいな」
食卓に料理を並べていく。白米に味噌汁に焼き魚と小鉢。きっと1人暮らしではなかなか食べられなかっただろう温かな朝食を前にして、凛子の表情が少し明るくなる。
いただきます、と噛みしめる用に両手を合わせたあと、味噌汁をひと口すすると、凛子はふわりと笑みを浮かべた。
「やっぱり、お母さんのごはんが一番だわ」
その言葉だけで、早苗の胸の奥がじんわり温かくなった。忙しかった日々、何も言わずに支えてくれた末っ子のこの笑顔を、早苗はどこかで当たり前に思ってしまっていたのかもしれない。
「実はね」と凛子がぽつりと口を開く。
「昔さ、兄ちゃんたちが騒いでる横で、私だけ店の手伝いしてたの覚えてる?」
「もちろんよ。凛子、小さいのに台拭きとか、よく頑張ってくれたわよね」
「うん。でもね、別に良い子ぶりたかったわけじゃないんだよ。ただ……」
凛子は少し照れくさそうにうつむいた。
「カウンターで、お母さんの料理を食べるのが好きだったの。お客さんみたいな気分で。ときどき、兄ちゃんたちには内緒ねって言いながら、小鉢くれたりして。あれが、すごく嬉しかった」
早苗は驚いて凛子の顔を見た。
「……そんなふうに思ってたの?」
「うん」
ふたりの間に流れる、静かで穏やかな時間。あのころとは違う、けれどどこか懐かしい温もりが、カウンター越しに漂っていた。
「私さ、お母さんの店、手伝ってもいいかな? 接客は無理だけど、仕込みとか、片付けとか」
凛子がふいにそんなことを言った。驚いたが、それは無理に前を向こうとしてるんじゃなく、ほんの少し、立ち上がろうとする心の表れのように思えた。
「いいよ。でも、その代わり、たくさん食べなさい。あんたの席は、いつだって空けてあるから」
凛子は目を細めて、また笑った。この笑顔を、もう二度と曇らせたくない。そう思いながら、早苗は娘のために、もう一度温かいお味噌汁をよそった。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Finasee マネーの人間ドラマ編集班
「一億総資産形成時代、選択肢の多い老後を皆様に」をミッションに掲げるwebメディア。40~50代の資産形成層を主なターゲットとし、多様化し、深化する資産形成・管理ニーズに合わせた記事を制作・編集している。