<前編のあらすじ>
千佳は夫の修三が家業である米農家を引き継ぐ決意をしたことから、夫の実家に移り住んだ。待っていたのは過酷な日々、そして姑・登世子による心無い仕打ちだった。
なんとか耐えていたものの、ある日不幸な事故により修三が命を落としてしまう。とはいえ、作物は人間の都合で生きているわけではない。修三に代わり、千佳は登世子と共に田植えを行わなければいけなくなる。
そして、登世子もまたぎっくり腰で倒れ、ついに千佳は一人で田植えをすることに。苦労の末、田植えを終えた千佳に登世子はついに「よくやったな」と声をかけるのだった。
それからしばらくして登世子は帰らぬ人となり……。
前編:「跡継ぎがいない……」米農家に嫁いだ嫁を待っていた、姑からの心無い仕打ち そして訪れた想定外の事態
義母の葬儀が始まり
祭壇に飾られた義母の遺影は、どこかよそよそしく見えた。
写真の中の彼女は口元をわずかに引き締めて、あのころと変わらぬ強さをまとっている。しかし、最後に過ごした1年間に見せた義母の表情は、こんなにも張り詰めてはいなかったはずだ。
葬儀には、東京から義兄と義姉が揃って帰ってきた。
喪服姿に身を包み、淡々と儀式をこなしていく。線香の煙が静かに揺れる中、義姉が小声でつぶやいた。
「……あっけなかったわね。もっとしぶとい人だと思ってたのに」
千佳はその言葉を聞き流すしかなかった。今さら何を言われても驚かない。でも、葬儀の席でその言い方は、さすがに心の奥をざらりと削られる思いがした。
義母と最後の別れを終え、居間に戻ってくるや、義兄が切り出した。
「で、家のことだけどさ。これだけの土地と家をこのままにしておくのはもったい
ないよな。管理も大変だし、そろそろ売ることを考えないと」
「そうね。田んぼも、もう機械も古いし。維持費ばかりかかるじゃない。ねえ千佳さん、正直なところ、ひとりで続けるのも限界でしょう?」
問いかけのようでいて、返事を求めていないのがわかる。
千佳は軽くうなずくだけだった。言い返す言葉が浮かばなかったのではない。ただ、相手に何を言っても無駄だということを、千佳はよく知っていた。
義母が残していた手紙
千佳がこの家に来てから二十数年。嫁という立場は、どこまでいっても「外の人間」だ。法的にも、義母の遺産を受け取る権利はない。夫・修三の死後も黙ってここにとどまり、義母と共に暮らしてきた年月は、千佳以外の人間にとっては何の意味のないものだったのだろうか。
「お義母さんって、遺言とか……何か書き残してなかったかしら? 千佳さん、何か聞いてない?」
「いえ、特には……でも、もし何かあるとしたら……」
千佳は静かに立ち上がり、そこへ向かった。線香の煙の向こう、漆塗りの仏壇の足元。指で触れた引き出しは、意外にもすんなりと開いた。中には封筒が一通、丁寧に置かれていた。
「これ……」
「えっ、遺言書? お母さん、本当に用意してたの?」
「へえー、意外だな」
千佳の手から無遠慮に封筒を受け取った義兄と義姉は、言葉を失っていた。なぜなら、義母の遺言の内容は、「千佳にすべての財産を渡したい」というものだったからだ。
土地も家もすべて千佳に遺贈するという明記があった。封筒の中には、さらにもう1枚、丁寧に折られた便箋があった。千佳は手のひらでその紙を撫でるようにして広げ、「千佳さんへ」から始まる文章を静かに読み始めた。
「千佳さんには、苦労ばっかりかけてきた。若いのに、よくこんな田舎まで来てくれたと思う。子ができんかったことを責めてしまったことは、今でも後悔してる。辛く当たってばかりで本当に申し訳なかった」
……と、たった3行で、もう胸がいっぱいになっていた。
「……修三が千佳さんを選んだ理由が、今はよくわかる。私が年を取ってからも、文句ひとつ言わず世話をしてくれた。振り返ってみると、千佳さんが一番の孝行娘やった」
そこに書かれていたのは、声に出して伝えられなかった言葉たち。義母が見せることのなかった素直な感情。
千佳は便箋をそっと胸に当てた。義兄も義姉も、それを見てはじめて黙り込んだ。しばらくの沈黙ののち、義姉がぽつりと言った。
「……お母さんは、ちゃんと見てたんだね」
それが素直な言葉だったのか、皮肉だったのかはわからない。でも、千佳はそれをありがたく受け取ることにした。
後日、弁護士を交えて正式に遺言を確認した結果、義母の意思が法的にも尊重されることが決まり、家と土地の多くは千佳の手に残されることになった。
田んぼに向かい
今年も無事、田植えが終わった。
機械は相変わらず古いし、泥だらけになった作業着は一度洗っただけでは落ちない。それでも千佳は、この季節を、どこか愛おしく感じている。
誰かと並んで植えることはもうないが、千佳の中には、修三と登世子の記憶が確かに残っている。あのふたりが生きていた時間が、この土地に、田んぼに、しっかりと根を張っている。
修三と結婚してこの土地に来た日、千佳は正直、不安しかなかった。嫁として、農家として、うまくやっていける自信なんてどこにもなかった。何度も「帰りたい」と思った。
それでもここにとどまったのは、修三の残したものを守りたかったから。そしていつしか、それが千佳自身の意思に変わっていったのだ。
「私がここに残った意味は、きっとこれだったんだろうな」
2人が眠る墓前。静かに呟いた千佳の前で、白い花弁が風に揺れていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Finasee マネーの人間ドラマ編集班
「一億総資産形成時代、選択肢の多い老後を皆様に」をミッションに掲げるwebメディア。40~50代の資産形成層を主なターゲットとし、多様化し、深化する資産形成・管理ニーズに合わせた記事を制作・編集している。