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“50代未経験、脱サラで蕎麦屋” 妻に何も相談せず早期退職した夫が退職金を原資にはじめようとした無謀な挑戦

2025/06/30 11:00

弘美は健司と28歳のときに結婚をし、今年で26年目になる。 これだけ長くいると、自然と話すことはなくなる。健司がもともと不愛想で寡黙な男だというのもあるだろうが、娘の佐夜子が独り立ちして家を出て行ってからはもうほとんど会話がなくなっていた。 今日もいつものようにテレビのBGM音でこのまま黙って食事を終えるのだろうと

弘美は健司と28歳のときに結婚をし、今年で26年目になる。

これだけ長くいると、自然と話すことはなくなる。健司がもともと不愛想で寡黙な男だというのもあるだろうが、娘の佐夜子が独り立ちして家を出て行ってからはもうほとんど会話がなくなっていた。

今日もいつものようにテレビのBGM音でこのまま黙って食事を終えるのだろうと思いながら、弘美がお茶を飲んでいると、珍しく健司から声をかけてきた。

「ちょっといいか?」

必ず健司はこの言葉を使って話しかけてくる。

「会社を辞めてきた」

健司が平然と言ってのけたことに弘美は固まる。

「……え? 何?」

「仕事を辞めてきたんだよ」

「……そうじゃなくて、何で? どうして仕事を辞めたのよ?」

「早期退職制度ってのがあってな、それを利用すると退職金が2倍もらえるんだ。応募をして、認められたんだよ」

「説明になってないし……何でもっと前から相談してくれなかったの?」

弘美がそう言うと、健司の眉間に深い皺が刻まれる。

「俺の人生だぞ。俺の好きにして何が悪い。それにこうして報告をしてるんだから問題ないだろ」

問題だらけだ。勝手なことをしてこっちの生活はどうなると思ってるんだ。数々の怒りがわき上がってきたが、弘美はぐっと歯を食いしばって呑み込んだ。

身勝手な夫

「……どうして辞めようなんて思ったのよ?」

「さっき言った」

退職者制度があったから辞めたというのか? そんなわけがない。もっと他に理由があるはずなのだ。しかしどうやら健司は話す気がないらしい。もしかしたら社内で居場所を失っていたのかもしれないし、働くということに嫌気が差したのかもしれない。どんな理由があるのかは本人が話す気にならない限り弘美は知る術がない。だがこれ以上しつこく聞いても不機嫌になるだけだった。

「……そう」

弘美は脳内で現状をどうにかしてポジティブなものにしようとする。

健司は現在56歳であと4年で定年を迎えることになる。2倍になった退職金は60歳までの4年分の給料には満たないかもしれない。だが、そこまでに大きな金銭的な問題が発生するとは思えない。

何よりも弘美もパートをしていて、それで補填はできる。あとは贅沢をせずにじっと我慢していれば年金だってもらえるようになるだろう。だったら生活の問題ないはずだ。

いざとなったら自分がパートの時間を増やせばいい。弘美が働くスーパーはいつも人材不足で長時間働くと言えば、喜んで受け入れてもらえるだろう。

弘美は思考を切り替えて、ゆっくりと息を吐く。大丈夫。問題ない。いつもこうやって健司に合わせてきた。だったらこれからも同じようにやっていけるはずだ。

しかし……。

「蕎麦屋をやるぞ」

最後の出勤から帰ってきた健司の開口一番の言葉に、弘美は再び固まった。

「……は?」

「蕎麦屋をやるんだ。知り合いがいいところがあると教えてくれてな。立地もいいし、前の店がそのまま残ってるから、初期費用も少なくやれる」

話を勝手に進める健司を弘美は止める。

「ちょっと待ってよ! 勝手なことを言わないで。そもそもそんなお金がどこにあるのよ?」

「退職金が出るからそれで払うに決まってるだろ」

健司は鼻で笑うように説明をする。その態度がさらに弘美の感情を逆なでる。

何も考えていない夫

「何を言ってるの? あれは私たちの生活費でしょ? それをなんで蕎麦屋の開業資金なんかに使うのよ? そんなことして私たちの生活はどうなるのよ?」

「蕎麦屋で稼ぐんだから問題ない」

健司は当然だと言わんばかりに返事してくる。

頭がクラクラしてきた。

確かに健司は蕎麦が好きだ。2人で外食をするとなると必ず選択肢は蕎麦になるくらい健司は蕎麦が好きなのだ。だが、蕎麦が好きなことと蕎麦を打てることのあいだには天と地ほどの差がある。

「蕎麦なんて打てるの?」

「何度かな。まあ修行は必要だろう」

「バカ言わないで!」

弘美は声を張り上げていた。弘美の言葉に健司は不快そうな顔になる。それでも弘美は言葉を続けた。

「そんな簡単にできるわけないでしょ! 現にあなただって口に合わない蕎麦だったとき、腕がないとか文句言ってたじゃない! なのにどうして自分がそんな数ヶ月、練習しただけでできるようになるって思えるのよ⁉」

「何だと……⁉」

開業予定日はまさかのうどんの日

「そもそもなんで7月2日なのよ⁉ あなたにも縁もゆかりもない日じゃない! しかも知ってる⁉ その日ってうどんの日なのよ⁉ 何でうどんの日に蕎麦屋を開くの⁉ どういう意味⁉」

弘美は一気にまくし立てる。弘美に反論されたことで健司は目くじらを立てて怒鳴り返してきた。

「黙れ! お前にそんなことを言われる筋合いはない! 俺ができると言ったらできるんだよ! これはもう決定なんだ」

「あなたが勝手に決めたことでしょ。それに、しかも何よ、脱サラして蕎麦屋って! なんだかありきたりなことして……みっともない!」

健司は思いきり拳をテーブルに叩きつけた。鈍い音に弘美は体を強ばらせる。

「黙れと言ってるだろ……! 蕎麦屋をやることはもう決まってるんだ。お前はパートを辞めて従業員として働け。それがお前のやるべきことだ」

そう言うと健司はリビングを出て行ってしまった。

残された弘美はどうにかしてポジティブに頭を切り替えようとしたが、今回はそれもできそうになかった。

●弘美などまるでいないかのように勝手に蕎麦屋開業に向けて突き進む健司。いったいどうすればよいのか……。苦悩する弘美の元に娘の佐夜子から電話がかかってきた。心配させまいと最初はなんとか事態を隠していた弘美だが、ついに耐えることができず、苦境を打ち明けてしまう。そんな弘美に佐夜子が告げたのは思いもよらない提案だった。後編:【「あんたのままごとには付き合ってられない…」相談なしに早期退職し身勝手すぎる挑戦を始めた夫に怒れる妻が突き付けたもの】にて詳細をお届けする。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

Finasee マネーの人間ドラマ編集班

「一億総資産形成時代、選択肢の多い老後を皆様に」をミッションに掲げるwebメディア。40~50代の資産形成層を主なターゲットとし、多様化し、深化する資産形成・管理ニーズに合わせた記事を制作・編集している。