まだ暑さの残る夕方だった。
食卓の麦茶がぬるくなり、しずかは氷を足そうとして手を止めた。玄関の鍵が開く音のあと、博の足音が聞こえる。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
上着を脱ぎながら、博は椅子に腰を下ろした。しずかが顔をのぞき込むと、内側から不機嫌さがあふれ出ている。感情が高ぶったまま固まっているようだった。
「辞めてきた」
短い一言に、しずかは一拍返事が遅れた。手のひらに汗がにじみ、指先がひやりと冷える。
「……会社?」
「ああ」
何から聞くべきか、しずかは迷った。
我ながら薄情だが、退職の理由よりも、これからの生活のほうが先に頭をよぎる。冷蔵庫の横には、病院の予約票が磁石で留めてある。薬の残りは2週間分。来月には検査もあるはずだ。
「お腹空いたでしょう。食べながら話しましょうか」
「ああ」
博は、部内でのパワハラ対応に異を唱えたこと、上が聞くふりだけして結論を先延ばしにしたこと、そして突然の異動命令が出たことを順に話した。異動先は現場から遠く、責任だけが増す配置だったという。
「納得できなかった。筋が違う。腹が立って、そのまま書類を出した」
「先に言ってくれればよかったのに……」
しずかが口にすると、博は視線を落とした。
「言ったら止めると思ったから」
否定できなかった。今も止めたい気持ちはある。
黙っていると、博は封筒をテーブルに置いた。退職の手続き書類には退職金の見込みが書いてある。
「……これだけ?」
「自己都合だと大きく減るんだと。定年前提で見込んでた上積みも消えるらしい」
あと1年半。それだけ耐えれば、家の修繕や通院費の見通しも立てやすかった。
しずかは博の話を聞きながら、台所の引き出しの中を思い浮かべていた。固定資産税の通知、火災保険の更新、給湯器の点検票。パートは週3日。増やせば、多少は足しになるか。
「私は、あなたが間違ってるとは思わないよ」
しずかはそう言ってから、息を整えた。博の顔色が、少しだけ緩んだように見える。
「でも、家計は別の話。まず、今の状況を確認しよう」
しずかは家計メモを取り出し、鉛筆を握った。
今月の残高、これからの支出、パートの収入。病院の支払いも、月によってばらつきがある。書くべき項目が、頭の中に並んでいく。
怖さは消えない。それでも、手を動かせば次へ進める。
博は黙って頷いた。しずかは麦茶に新しい氷を入れ、2つのグラスを食卓の中央に戻した。氷が当たる音が、小さく部屋に響いた。
パート先の突然の閉店通告
昼の山を越え、弁当屋のバックヤードの空気が少し軽くなった。揚げ物の油はまだ熱いのに、仕込み台の上はいつもより片づいている。段ボールの数も少ない。
しずかは気づかないふりをして、前掛けの紐を結び直した。店主は伝票をまとめ、鉛筆を耳に挟んだままため息をつく。レジ前の棚は、夕方の補充が間に合わず、品薄のままだ。
しずかはタイミングを見て、声をかけた。
「店長、すみません。来週から、もう少し入れますか。午後の仕込みも」
店主の手が止まり、視線が一度だけ空いた段ボール置き場をかすめた。
「ああ……しずかさんには悪いんだけど……うち、年内で閉めることになったんだ。経営が厳しくてね」
淡々とした口調。
「シフトを増やせば何とかなる」と思っていた頼みの綱が、そこでぷつりと切れた。
「どうしても閉めるんですか」
「うん……いろいろ高騰してるし、客足も戻らない。借り入れを増やす前に、ここで区切ることにした。ごめんね」
店主は申し訳なさそうに笑ったが、目の下の疲れは隠せなかった。
無理は言えない。
しずかはうなずいた。
「分かりました。働ける日までは、これまで通りで」
「助かるよ。本当に」
店を出ると、風が冷たかった。ガラスに貼られた季節メニューの紙が、端から少し浮いている。それを見て、しずかは店長から聞いた「閉店」という言葉が現実になっていくのを実感した。
「ただいま」
帰宅すると、ポストに保険会社からの封筒が届いていた。更新の案内だと分かり、指先が止まる。支払いを想像し、呼吸が浅くなった。
しずかは家計メモを開き、閉店予定を書き足す。鉛筆の先が紙をこする音が、小さく響いた。
矜持と現実のはざまで
朝。台所の窓を少し開けると、冷たい空気が手首に触れた。
しずかは湯を沸かし、薬のケースを流しの横に置く。今日の分を取り出しておけば、慌ただしくなっても飲み忘れない。通院予定の近い週は、特にそうだ。
博は食卓で新聞を広げていた。
湯呑みを2つ並べ、家計メモをテーブルの端に置く。閉店の予定、保険の更新、固定資産税。書き足した項目の横に、小さく丸をつけている。自分が次に何をすべきか、迷わないための印だ。
「ねえ」
博が視線を上げる。
「彩香たちに、相談するのはどう」
言い切ってから、しずかは続けた。
「援助を頼むって話じゃないよ。ただ、状況だけは伝えておきたい。彩香は県外にいるし、急に言うより、前もって知っておいてほしい」
博はすぐには答えなかった。新聞の端を指で押さえたまま、目だけが動く。
「心配かけたくない」
「うん、私もよ」
しずかはうなずいた。その気持ちは同じだ。
「それに……俺は自分の尻は、自分で拭く」
もどかしさがにじんでいた。博には博の矜持がある。正面から折ろうとすれば、別のものまで傷つけてしまいそうだった。
しずかは湯を注ぎ、湯気の立つ湯呑みを博の前に置いた。
「分かった。無理には言わない」
その代わりに、しずかは家計メモを開く。
「ただ、これからのことを決めたいの。今週、私は求人を見に行く。午後の短時間で探すから。あなたも、自分が応募できそうなところを選んでほしい」
博は湯呑みに手を添え、その温かさを確かめるように指を動かした。
「……分かった」
博が小さくうなずいた。新聞をたたむ音がして、しずかはようやく朝の時間が動き出したように感じた。
●夫・博が突然退職を決めた。自己都合のため退職金は大幅減額。妻・しずかもパート先が年内で閉店することに。通院費や固定費を抱える中、2人は再就職を決意するが…… 後編【「取り戻そうとしてドツボにはまった」仕事探しのはずが投資の値動きを見つめる夫…妻が画面で目にした“衝撃の残高”】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Finasee マネーの人間ドラマ編集班
「一億総資産形成時代、選択肢の多い老後を皆様に」をミッションに掲げるwebメディア。40~50代の資産形成層を主なターゲットとし、多様化し、深化する資産形成・管理ニーズに合わせた記事を制作・編集している。